9月 202013
 

 古川欣一2代目社長とは1983年初めてエクアドルにエビの養殖に行った時お目にかかった。かつて勤務していた東山農事の宮地顧問に私は今エクアドルにいると電話すると、エクアドルにはとてもえらい日本人がバナナ園を経営しているから探して是非お会いするようとのことだった。
 
 偶然グアイヤキルにいるときに電話帳に古川拓植が出てきた。早速電話すると、野呂さんと言う日本人が電話にでて事務所が歩いて5分ほどのところにあることが分かった。古川社長はキトーにいるので近々グアイヤキルに来るのでその時に連絡しますということでした。以後何回かグアイヤキルとキトーでお会いしました。
 
 何年後かに私が日本に帰っている時に、日本の事務所の大柴専務から古川社長がエクアドルから帰国しているとのことで拙宅にご招待しました。
残念なことに私が再度エクアドルに行った1998年頃には既にお亡くなりになったいました。

 サントドミンゴの農園も一度訪ねたこともあります。エクアドルでは珍しく日本人がいるとこです。
 
 古川拓植の歴史を無くさないように、私も時間があるときは史料をあさっています。


9月 202013
 

ニッケイ新聞 2013年9月20日

麻が結わえた南米との絆=エクアドルの古川拓植=(5)=アバカ林の先に日本庭園=受け継がれる移住者の信念

写真=羽富博さん「エクアドルが肌にも性格にも合ってる! キトは寒くてだめだ!」

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 「バルサのいいところはね」と羽富博さん。「種を撒いてから4、5年で切れる。手入れもほとんど必要ない。ちょっと土地が余っている人は種を撒いておけば臨時収入を得られて助かるんだよ」。
 羽富さんがエクアドルに来たのは72年。日本の商社の駐在員として来たが独立した。古川拓殖の2代目古川欽一社長の資金援助でBALPLANTを設立したのだ。
 「がむしゃらに働いて、工場に泊まったりもして30年は日本に帰らなかった」と当時を懐かしむ。
 最盛期よりは落ち着いたものの、現在も月に8コンテナを出荷するバルサは、船や冷蔵庫、車の内貼りに利用されている。また最近では風力発電の羽根にも使われているとのこと。
 「昔はその辺に生えている木を切って、売りに来る人もいたけど、保護のために今は完全にプランテーション」と言う。
 BALPLANTは植林・製材だけではなく、バルサの種を採取し選別して、植えたい人にただで分ける。そして伐採時期になると従業員が切りに行き買い取る。
 「共存共栄が大切」という博さんは、従業員にも愛される。組合もなく、約70人いる従業員からは気軽に声を掛けられ長く働く者も多い。
 現在は二男の直樹さん(34)に運営を任せ、本人は趣味の盆栽三昧の生活をしている。
 「あいつはなかなかやるよ。毎日好きなことをやらせてもらってありがたい。息子にも今があるのは古川さんのお蔭だと言い聞かせている。毎年命日ごろに手を合わせに行くよ」。
 直樹さんもまた、ゼロから立ち上げた父を尊敬してやまない。バルサ以外の事業を始めたり、製材所を大きくしたりする計画があるが、設立時に博さんが植えたクラベジンは緑のスペースとして取っておこうと提案してくれたと言う。
 「木も人も育てるのは難しいからうまく大きくなってくれると嬉しいんだよな。いろいろあったけど今となったら面白いアドベンチャーだね」と笑う博さんは、まだまだこれから何か始めそうなエネルギーに満ち溢れていた。
   ☆   ☆
 古川拓殖から独立した日本人の農園を通り過ぎ、さらに先に進んでいったところに、古川拓殖の記念庭園はある。
 アバカやヤシの林から突如現れる日本庭園――思わず息を飲む光景だ。池にはたくさんの立派な鯉が悠々と泳いでいる。
 向かい合う初代義三と二代目欽一の銅像の横でひときわ目を引くのが三本の円柱が立った黄金のオブジェ。これは3本一組で繊維を取るアバカそのものだ。
 そして記念碑には亡くなった関係者の名前のプレートが並べられている。普段は人が訪れることはなくひっそりしているが、整備の行き届いた庭園は初代の信念と衰えぬ影響力を感じさせる。
 庭園内にはダンスホールもあり、そこからは220ヘクタールのアバカプランテーションが見渡せる。
 古川拓殖のアバカ加工工場と倉庫には、ここのほか前述の羽富さんのバルサ製材所近くにある2000ヘクタールを超える土地で栽培されたアバカも毎日運び込まれる。
 買い取りもしており、以前より減っているというもののエクアドルのアバカ業者としては圧倒的だ。
 それぞれの形で受け継がれる移住者の信念と新しい試み。古川拓殖はエクアドルに住む日本人にだけでなく、同国の産業にも大きな影響を与えた。戦前ダバオからの日本人移民の情熱はここエクアドルに確かに根付いていた。(終り、秋山郁美エクアドル通信員)

この連載はこちらでご覧になれます。
http://www.nikkeyshimbun.com.br/2013/2013rensai-akiyama1.html


9月 202013
 

ニッケイ新聞 2013年9月19日

麻が結わえた南米との絆=エクアドルの古川拓植=(4)=日本で有名「田辺バナナ」

写真=「田辺バナナ」の正裕さん(中央)、洋樹(ひろき)さん(右)、高橋力さん(左)

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 エクアドルに到着した翌年に誕生した二男、田邊洋樹さん(ひろき、45)は、アメリカの大学を卒業後、日本で英語講師などをしていた。でも、兄の仕事の関係から、日本のバナナの取引先である会社に勤めるようになった。
 兄弟に転機が訪れたのは2005年。たくさんの農家から集めたどんなものかわからないバナナを一つのブランドにして出すという、大手のやり方に疑問を持っていた正裕さんは、「顔の見えるバナナ」を目指して独立を決意したのだ。
 エクアドル最大手ノボアに取引の終了を通告した。「ノボアの扱う量からしたら、うちはちっぽけで気にするほどではないと思ったが、気分を害したらしく命まで狙われた。ヘリコプターで農園まで乗り込んできてね」。冗談めかして話す正裕さんだが、キトに住む日本人の間では有名な逸話になっている。
 また、それをきっかけに日本側の洋樹さんは新しい取引相手の会社に転職した。これでようやく「田辺バナナ」を日本へ送り出す体制が整った。
 「自然に優しい」をモットーにした田辺バナナは徐々に日本で知名度を高め、コンビニエンスストアでは一本100円という値段ながらも人気商品となっている。
 「水や土にこだわって、自然の営みから生まれるおいしさを大切にしたい」。正裕さんは、こだわりを追求するため、まだ次世代を考えて07年、08年に農園で働く日本人を受け入れた。
 高橋力さん(ちから、37)は技術担当。出荷できない傷のあるバナナをミミズに与えてできた肥料と、バナナの茎やパルミート、おがくずにEM菌(有用微生物群)を振りかけて作った「ぼかし」堆肥を一株ずつ与え、農薬もできる限り自然に還るものをと日々研究を続けている。
 また、10年には洋樹さんを呼びよせた。「父はリタイアするときにすべて降りて、何も言わなかった。それで自分は成長することができた」と正裕さんは振り返る。
 「でも今は責任や規模が大きくなって、放り出すことは絶対にできない。彼らには担当分野だけでなく、全体を学んでもらわなくてはいけない」。
 洋樹さんは「こちらの世代交代は日本と歩調を合わせながら。でもこの国が数年後どうなってるかわからないからね」と不安をはねのけるように笑い飛ばした。
  ☆   ☆
 サントドミンゴから南へ約40分、ケベド市の少し手前に「バルサ買います」という小さな古びた看板がぶら下がっている。門を抜けると、看板には似つかわしくない大きな工場が現れた。
 積まれた丸太を軽々と投げ渡し、大きな回る刃にあてて分割していく、それは木の太さからは信じられないほどの素早さだ。
 それもそのはず、ここは世界一軽い木バルサの製材所だ。現在はほとんど製材所にやってくることはないという創業者の羽富(はとみ)博さん(69、茨城)が工場を案内してくれた。
 先ほどの機械で長さと太さを大体揃えられたバルサは、大きな乾燥室に約13日間に入れられ、水分が90パーセントから8パーセントになるまで乾かされる。もともと軽い木であるが水分が抜けたバルサは固いスポンジのように軽い。
 バルサ材はアメリカに輸出され、「そこから全世界に行く」と言う。(つづく、秋山郁美エクアドル通信員)

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9月 202013
 

ニッケイ新聞 2013年9月18日

麻が結わえた南米との絆=エクアドルの古川拓植=(3)=従業員とサッカーで団結=紙幣や煙草、紅茶袋にも

写真=若社長の古木雄治さん、出荷待ちのアバカを背に
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 古木雄治さんの両親は子供の頃ボリビアのサンフアンに移民として渡ったが、後にエクアドルに再移住しており、南米生活は長い。でも家庭内は日本語で、古木さんも日本の大学へ留学経験があり、丁寧語も使いこなせる。
 現地人とも日本人とも交渉が重要な役に適していたが、それまではフリーランスで通訳や映像の仕事をしており、アバカに関しては全くの素人だった。
 「サントドミンゴに来たのも初めてで、何もわかりませんでした。1カ月は従業員の皆さんと一緒に働いていろいろ教えてもらいました」。ニコニコと話す古木さんは、不思議と苦労を感じさせない。
 エクアドルでも特に活気のあるグアヤキルから突然、鳥の鳴き声しか聞こえないプランテーションのど真ん中に転住した。でも、「車がなくて渋滞もないし、静かで落ち着きます」と微笑んでいる。
 新米の若社長ではあるが、彼が来てから業務の改善が進んだ。パックにするときに結ぶ紐をアバカのロープに変えたり、苦情に対応できるよう日付などの情報を記入したタグをパックに付けることを始めた。
 仕事の後は、ほぼ毎日従業員とサッカーで汗を流し、いつの間にか団結が芽生えた。
 アバカの繊維はその強さゆえに昔はロープに使われていたが、徐々に石油製品に圧され、現在は主に特殊な紙の原料になっている。紙幣やティーパック、たばこのフィルターなどだ。天然素材ということを生かし、従来ビニールが使われていたソーセージのフィルムにも加工されているという。
 「これからは、もっとアバカの使い道を広げたいですね」。穏やかに話しながらも、ときおり意気込む若社長の様子はどこか頼もしい。
  ☆    ☆
 現在日本でよく知られるようになった自然循環栽培バナナの田辺農園(TECNOBAN)も、もとは古川拓殖のアバカ農家であった。
 現在エクアドル在住日本人最高齢の田邊正明さん(95)は、ダバオ時代に農業技術者をしていた。戦後、日本郵便に勤めていたが海外移住の夢を諦められず、45歳で妻と二人の子を残し、単身エクアドルへ。
 67年に家族を連れてきた。16歳だった長男の正裕さんは当時を語る。「自分も外に出たいと思っていたから、父がエクアドルに行きたいと言ったときはいいね!と思った」。
 到着して2週間後、正裕さんはひとり家族から離れ、他の古川拓殖社員の家に住み、キトで高校に通った。「父は2年後に独立したけど、自分は大学で獣医学を勉強していたから、農園のことはわからなかった」。
 大使館や日系商社の現地採用を経て、88年に跡を継ぐため初めて農園に戻った。
 正裕さんは「親がやっていることをそのままやるのは面白くないから、ブームだったバナナをやろう」と91年、キトで貿易代理店を営む内田渥さんの出資をえて、150ヘクタールにバナナを植えた。(つづく、秋山郁美エクアドル通信員)

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