9月 202013
 

ニッケイ新聞 2013年9月20日

麻が結わえた南米との絆=エクアドルの古川拓植=(5)=アバカ林の先に日本庭園=受け継がれる移住者の信念

写真=羽富博さん「エクアドルが肌にも性格にも合ってる! キトは寒くてだめだ!」

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 「バルサのいいところはね」と羽富博さん。「種を撒いてから4、5年で切れる。手入れもほとんど必要ない。ちょっと土地が余っている人は種を撒いておけば臨時収入を得られて助かるんだよ」。
 羽富さんがエクアドルに来たのは72年。日本の商社の駐在員として来たが独立した。古川拓殖の2代目古川欽一社長の資金援助でBALPLANTを設立したのだ。
 「がむしゃらに働いて、工場に泊まったりもして30年は日本に帰らなかった」と当時を懐かしむ。
 最盛期よりは落ち着いたものの、現在も月に8コンテナを出荷するバルサは、船や冷蔵庫、車の内貼りに利用されている。また最近では風力発電の羽根にも使われているとのこと。
 「昔はその辺に生えている木を切って、売りに来る人もいたけど、保護のために今は完全にプランテーション」と言う。
 BALPLANTは植林・製材だけではなく、バルサの種を採取し選別して、植えたい人にただで分ける。そして伐採時期になると従業員が切りに行き買い取る。
 「共存共栄が大切」という博さんは、従業員にも愛される。組合もなく、約70人いる従業員からは気軽に声を掛けられ長く働く者も多い。
 現在は二男の直樹さん(34)に運営を任せ、本人は趣味の盆栽三昧の生活をしている。
 「あいつはなかなかやるよ。毎日好きなことをやらせてもらってありがたい。息子にも今があるのは古川さんのお蔭だと言い聞かせている。毎年命日ごろに手を合わせに行くよ」。
 直樹さんもまた、ゼロから立ち上げた父を尊敬してやまない。バルサ以外の事業を始めたり、製材所を大きくしたりする計画があるが、設立時に博さんが植えたクラベジンは緑のスペースとして取っておこうと提案してくれたと言う。
 「木も人も育てるのは難しいからうまく大きくなってくれると嬉しいんだよな。いろいろあったけど今となったら面白いアドベンチャーだね」と笑う博さんは、まだまだこれから何か始めそうなエネルギーに満ち溢れていた。
   ☆   ☆
 古川拓殖から独立した日本人の農園を通り過ぎ、さらに先に進んでいったところに、古川拓殖の記念庭園はある。
 アバカやヤシの林から突如現れる日本庭園――思わず息を飲む光景だ。池にはたくさんの立派な鯉が悠々と泳いでいる。
 向かい合う初代義三と二代目欽一の銅像の横でひときわ目を引くのが三本の円柱が立った黄金のオブジェ。これは3本一組で繊維を取るアバカそのものだ。
 そして記念碑には亡くなった関係者の名前のプレートが並べられている。普段は人が訪れることはなくひっそりしているが、整備の行き届いた庭園は初代の信念と衰えぬ影響力を感じさせる。
 庭園内にはダンスホールもあり、そこからは220ヘクタールのアバカプランテーションが見渡せる。
 古川拓殖のアバカ加工工場と倉庫には、ここのほか前述の羽富さんのバルサ製材所近くにある2000ヘクタールを超える土地で栽培されたアバカも毎日運び込まれる。
 買い取りもしており、以前より減っているというもののエクアドルのアバカ業者としては圧倒的だ。
 それぞれの形で受け継がれる移住者の信念と新しい試み。古川拓殖はエクアドルに住む日本人にだけでなく、同国の産業にも大きな影響を与えた。戦前ダバオからの日本人移民の情熱はここエクアドルに確かに根付いていた。(終り、秋山郁美エクアドル通信員)

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9月 202013
 

ニッケイ新聞 2013年9月19日

麻が結わえた南米との絆=エクアドルの古川拓植=(4)=日本で有名「田辺バナナ」

写真=「田辺バナナ」の正裕さん(中央)、洋樹(ひろき)さん(右)、高橋力さん(左)

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 エクアドルに到着した翌年に誕生した二男、田邊洋樹さん(ひろき、45)は、アメリカの大学を卒業後、日本で英語講師などをしていた。でも、兄の仕事の関係から、日本のバナナの取引先である会社に勤めるようになった。
 兄弟に転機が訪れたのは2005年。たくさんの農家から集めたどんなものかわからないバナナを一つのブランドにして出すという、大手のやり方に疑問を持っていた正裕さんは、「顔の見えるバナナ」を目指して独立を決意したのだ。
 エクアドル最大手ノボアに取引の終了を通告した。「ノボアの扱う量からしたら、うちはちっぽけで気にするほどではないと思ったが、気分を害したらしく命まで狙われた。ヘリコプターで農園まで乗り込んできてね」。冗談めかして話す正裕さんだが、キトに住む日本人の間では有名な逸話になっている。
 また、それをきっかけに日本側の洋樹さんは新しい取引相手の会社に転職した。これでようやく「田辺バナナ」を日本へ送り出す体制が整った。
 「自然に優しい」をモットーにした田辺バナナは徐々に日本で知名度を高め、コンビニエンスストアでは一本100円という値段ながらも人気商品となっている。
 「水や土にこだわって、自然の営みから生まれるおいしさを大切にしたい」。正裕さんは、こだわりを追求するため、まだ次世代を考えて07年、08年に農園で働く日本人を受け入れた。
 高橋力さん(ちから、37)は技術担当。出荷できない傷のあるバナナをミミズに与えてできた肥料と、バナナの茎やパルミート、おがくずにEM菌(有用微生物群)を振りかけて作った「ぼかし」堆肥を一株ずつ与え、農薬もできる限り自然に還るものをと日々研究を続けている。
 また、10年には洋樹さんを呼びよせた。「父はリタイアするときにすべて降りて、何も言わなかった。それで自分は成長することができた」と正裕さんは振り返る。
 「でも今は責任や規模が大きくなって、放り出すことは絶対にできない。彼らには担当分野だけでなく、全体を学んでもらわなくてはいけない」。
 洋樹さんは「こちらの世代交代は日本と歩調を合わせながら。でもこの国が数年後どうなってるかわからないからね」と不安をはねのけるように笑い飛ばした。
  ☆   ☆
 サントドミンゴから南へ約40分、ケベド市の少し手前に「バルサ買います」という小さな古びた看板がぶら下がっている。門を抜けると、看板には似つかわしくない大きな工場が現れた。
 積まれた丸太を軽々と投げ渡し、大きな回る刃にあてて分割していく、それは木の太さからは信じられないほどの素早さだ。
 それもそのはず、ここは世界一軽い木バルサの製材所だ。現在はほとんど製材所にやってくることはないという創業者の羽富(はとみ)博さん(69、茨城)が工場を案内してくれた。
 先ほどの機械で長さと太さを大体揃えられたバルサは、大きな乾燥室に約13日間に入れられ、水分が90パーセントから8パーセントになるまで乾かされる。もともと軽い木であるが水分が抜けたバルサは固いスポンジのように軽い。
 バルサ材はアメリカに輸出され、「そこから全世界に行く」と言う。(つづく、秋山郁美エクアドル通信員)

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9月 202013
 

ニッケイ新聞 2013年9月18日

麻が結わえた南米との絆=エクアドルの古川拓植=(3)=従業員とサッカーで団結=紙幣や煙草、紅茶袋にも

写真=若社長の古木雄治さん、出荷待ちのアバカを背に
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 古木雄治さんの両親は子供の頃ボリビアのサンフアンに移民として渡ったが、後にエクアドルに再移住しており、南米生活は長い。でも家庭内は日本語で、古木さんも日本の大学へ留学経験があり、丁寧語も使いこなせる。
 現地人とも日本人とも交渉が重要な役に適していたが、それまではフリーランスで通訳や映像の仕事をしており、アバカに関しては全くの素人だった。
 「サントドミンゴに来たのも初めてで、何もわかりませんでした。1カ月は従業員の皆さんと一緒に働いていろいろ教えてもらいました」。ニコニコと話す古木さんは、不思議と苦労を感じさせない。
 エクアドルでも特に活気のあるグアヤキルから突然、鳥の鳴き声しか聞こえないプランテーションのど真ん中に転住した。でも、「車がなくて渋滞もないし、静かで落ち着きます」と微笑んでいる。
 新米の若社長ではあるが、彼が来てから業務の改善が進んだ。パックにするときに結ぶ紐をアバカのロープに変えたり、苦情に対応できるよう日付などの情報を記入したタグをパックに付けることを始めた。
 仕事の後は、ほぼ毎日従業員とサッカーで汗を流し、いつの間にか団結が芽生えた。
 アバカの繊維はその強さゆえに昔はロープに使われていたが、徐々に石油製品に圧され、現在は主に特殊な紙の原料になっている。紙幣やティーパック、たばこのフィルターなどだ。天然素材ということを生かし、従来ビニールが使われていたソーセージのフィルムにも加工されているという。
 「これからは、もっとアバカの使い道を広げたいですね」。穏やかに話しながらも、ときおり意気込む若社長の様子はどこか頼もしい。
  ☆    ☆
 現在日本でよく知られるようになった自然循環栽培バナナの田辺農園(TECNOBAN)も、もとは古川拓殖のアバカ農家であった。
 現在エクアドル在住日本人最高齢の田邊正明さん(95)は、ダバオ時代に農業技術者をしていた。戦後、日本郵便に勤めていたが海外移住の夢を諦められず、45歳で妻と二人の子を残し、単身エクアドルへ。
 67年に家族を連れてきた。16歳だった長男の正裕さんは当時を語る。「自分も外に出たいと思っていたから、父がエクアドルに行きたいと言ったときはいいね!と思った」。
 到着して2週間後、正裕さんはひとり家族から離れ、他の古川拓殖社員の家に住み、キトで高校に通った。「父は2年後に独立したけど、自分は大学で獣医学を勉強していたから、農園のことはわからなかった」。
 大使館や日系商社の現地採用を経て、88年に跡を継ぐため初めて農園に戻った。
 正裕さんは「親がやっていることをそのままやるのは面白くないから、ブームだったバナナをやろう」と91年、キトで貿易代理店を営む内田渥さんの出資をえて、150ヘクタールにバナナを植えた。(つづく、秋山郁美エクアドル通信員)

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9月 202013
 

ニッケイ新聞 2013年9月17日

麻が結わえた南米との絆=エクアドルの古川拓植=(2)=ダバオ時代とほぼ同じ作業=ラバと人の目と手が頼り

写真=スザノから転住した半沢勝さん

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 「いつも上を見て歩くのが癖になっている」と、切り倒されたアバカで足場の悪いプランテーションを歩く半沢勝さん。上を見るのは咲きそうな花がないか探すためだ。開花直後がいちばんしなやかな繊維が取れるのだそうだ。
 茎の太さによって取れる繊維の量が違うため、3本合わせていつも同じくらいになるよう切る茎を選ぶ。
 茎を倒す前に余計な葉を切り落とすことを「ソンケ」と言う。柄の長い鎌のようなソンケと呼ばれる道具が使われる。
 「トゥンバ」は茎を切り倒すことだ。茎と言っても、高さが3メートル、太さも20センチくらいあるため木が倒れるようだ。
 3本揃えると、使わない茎で巧みに台を作り、葉鞘の繊維のある部分だけを見極め根元の方から剥がしていく。
 道具は鉈のようなトゥクセイロという刃物だけ。皮を剥く作業「トゥクセ」からきている。
 剥がされる葉鞘はまるで長い鞭のようにしなってうなる。華麗な作業は見ていて飽きないが大変な手間だ。
 繊維は外側のほうが赤褐色、内側に行くほど白くてしなやかなため、等級は上がる。
 次はブレーロと呼ばれラバで麻引き所まで束を運ぶ作業。ここまではすべてプランテーションの中で行われ、倒された茎の残骸はそのまま放置され肥料になる。
 アバカはバナナと同じく、残された根から次々と茎が生えてくるので新たに植える必要はない。
 ラバが運んできた葉鞘の束「トンギージョ」は、油でまっくろになった麻引き機「ハゴタン」で繊維にする。ダバオで日本人が発明した機械だ。
 機械と言ってもヤスリがモーターで回っているような簡単な仕組みで、人が葉鞘をヤスリ部分に巻きつけ、葉肉を落としていく。「アサ(繊維)が強すぎて、手や足に巻かれると、すぱっと持ってかれるよ。へっへっへっ!」。そう豪快に笑い飛ばす様子からは、長いアバカ産業の歴史の一断面が伺われる。
 効率化を計りたくとも、地面が平らでなく並んで植えられていないプランテーションから運び出すにはラバが最適だ。
 ラバが引きずってゴミが紛れ込んだアサをより分けるのも、人の目と手が頼り。そうしたことから言葉だけでなく作業自体もダバオ時代からほとんど変わっていない。
 独立した半沢さんは、43ヘクタールのアバカと22ヘクタールのバナナの生産を行い、それぞれを日系のABAUDESAとTECNOBANに納入している。
 「昔は麻雀が楽しかったけど、日本人がいなくなっちゃったからね。今は夜ウィスキーを飲むのが楽しみだね」。
 半沢さんの後ろで素麺のように干されたアバカが風に揺れていた。
  ☆    ☆
 古川拓殖から独立した日本人アバカ業者がソシオ(会員)となっているABAUDESAは、干された状態で納入されたアバカ繊維を品質の等級に分け、きれいに掃除し、圧力をかけて固め、日本に向けて輸出している会社だ。
 そこで雇われ社長をしているのはグアヤキル生まれの二世、古木雄治さん(27)。1年半前、前社長が体調を崩したため、ソシオが一日交替で社長の仕事をしていたときに白羽の矢が立った。(つづく、秋山郁美エクアドル通信員)

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9月 202013
 

ニッケイ新聞 2013年9月14日

麻が結わえた南米との絆=エクアドルの古川拓植=(1)=戦前ダバオ、奇縁で再興=スザノからの転住者も入植

写真=古川義三の銅像

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 【秋山郁美エクアドル通信員】戦前からの熱い日本移民の志を引き継いだ男たちによるエクアドル移住――。南米の中でも日本人移住者が少なく、国策としての移民がなかったと言われるエクアドルだが、実は戦後、日本海外移住振興株式会社からの融資を受け、古川拓殖株式会社が事業を始めていた。知られざる「古川拓殖」のアバカ事業と、それに関係する日本人農業従事者の今を追った。

 標高2800メートルの首都キトから車で3時間、途中、耳抜きを何度もしながら西へ下っていくと、サントドミンゴ・デ・ロス・ツァチラス県に入る。県都サントドミンゴ・デ・ロス・コロラドス=通称「サントドミンゴ」では、キトでは見ない三輪のモトタクシーが走り回り、むわっとした空気が漂い、まるでアジアのどこかの国にやって来たような錯覚をおぼえる。
 そこからさらにアバカやパームヤシのプランテーションの脇を40分、未舗装の道を20分奥へ進む。ふと、拓けた空間にすっきりと整えられた芝が広がる。
 芝が象る文字は「FPC」(Furukawa Plantacions C.A.)。戦前、フィリピン南部ミンダナオ島のダバオにおいて、南洋一の日本人社会を作った古川拓殖のことだ。同社は古川義三氏(1888―1985)によって1914年にダバオで設立され、「マニラ麻」とも呼ばれるアバカの栽培を始めた。
 当時フィリピンでは同社を筆頭に、日本人のアバカ産業はめざましい発展を見せた。1930年代後半、ダバオには日本人が2万人も住み、アバカも同国の主要輸出農産物となり、輸出総額の1位を占めるまでになった。しかし、敗戦に伴い、フィリピン移住者の全財産は没収され、強制送還となった…。
 戦後、ようやく移民政策が再開された。すでに70歳になっていた古川だったが、日本政府の要請で1959年にアマゾンへ視察に向かった。アバカ生育条件が満たされたエクアドルのケベド近くで、古川は米国が植え付けたアバカがある試験農園を視察した。
 なんとそれは――1925年に、古川が米国に依頼されてダバオから送っていた苗の〃子孫〃であった。こうした奇縁からアバカ再興の地としてエクアドルが選ばれた。
 あの古川拓殖がエクアドルでアバカ事業を再興すると知られると、ダバオの時代の強者たちが次々に名乗りを挙げた。中にはすでにブラジルに移住していた者もあったが、アバカへの思いに燃えて数家族が転住した。
 半沢勝さん(71)もその一人だ。父の故金重さんはダバオ時代の古川拓殖におり、勝さんはダバオ生まれ。引き上げ後は福島に住んでいたが、戦後移住で62年にサントス丸で渡伯。聖州スザノ市へ入植し養鶏や野菜作りをしていた。
 しかし、5年後に古川がブラジルまでエクアドルへの希望者を募集にやってきた。邦字紙に出た広告を見て一家はエクアドルへ移住することを決意した。
 「エウ・エスケシ・ポルトゥゲース」と言いながら豪快に笑う半沢さんは、まだ現役でアバカの林の中をざくざくと歩く。(つづく)

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