6月 162017
 
 2017年6月16日  不正, 文化, 旅行, 犯罪, 生活, 韓国, 韓国の情勢

東南アジアで世界遺産に迷惑行為を繰り返す「アイ・アム・ジャパニーズ!」男を直撃! すると、流暢な韓国語を……の画像1

東南アジア各地の観光地で、世界遺産の遺跡などに禁止行為をするなどしていた「自称・日本人」が、実は韓国人であることがわかった。日本人を名乗ってマナー違反などを繰り返していた当人を直撃したところ「自分は日本人だ」と主張したが、話していたのは日本語ではなく、韓国語だったのである。

昨年、タイやカンボジアの世界遺産の遺跡などで立入禁止の区域に侵入したり、撮影禁止の場所での撮影、登ってはいけない遺跡によじ登るなどの迷惑行為を繰り返していた男が、いずれの場所でも「日本人」を名乗っていたことが、観光事業者や旅行者から報告されていた。ある目撃者によると男は昨年、カンボジアの世界遺産、アンコールワットでは飲んでいたジュースを遺跡の壁にかけたり、よじ登ったりして警備員に取り押さえられたが、「フロム・ジャパン」と叫んでいたという。

現地では「迷惑な日本人」という声もあったほどだが、そんな迷惑男が先日出没したのが、ラオス南部にある世界遺産「ワット・プー遺跡」。

同所は10~12世紀に建てられたとみられるヒンズー教の寺院で、園内にはいくつかの宮殿などがある。警備員らを騒がせたのは、問題の自称・日本人がまたもや宮殿の壁を登るなどしていたため。声をかけられた途端に逃走していったというのだが、管理職員は「何年もかけて修復作業をしているのに、日本人はそれが理解できないのか」と激怒していた。

しかし、不自然だったのは、男が赤い日の丸と「日本」の文字が書かれたシャツを着ていたこと。日本人観光客でそんな外国人向け土産のようなものを着ている人はほとんどおらず、本当に日本人かどうか疑わしかったため、その男の足取りを追った。

本人を直撃できたのは、首都ビエンチャン郊外。目撃情報を頼りに男を追い、現われそうな観光地を順次追跡していた中で、ついに当人を見つけたのである。場所は通称「ブッダパーク」と呼ばれるワット・シェンクワン。ここは世界遺産ではなく、仏教やヒンズー教の像などを無秩序にたくさん並べて置いている珍テーマパークだ。男はここでも予想通り、禁止行為をやらかして騒ぎを起こしていた。

まさに建物によじ登って警備員に注意されていたところをキャッチ。男は「JPN」と書かれた紺色のTシャツを着ており、そこで「アイ・アム・ジャパニーズ」と叫んでいたのだが、世界遺産ではないから激しく怒られる様子もなく、そのため男は悪びれもせず連れの女性に写真を撮らせていた。

ひょっとすると、この迷惑行為を各所で宣伝しているのは当人なのかもしれない。下りてきた男を直撃。警戒されないよう、英語で「日本の方ですか?」、「どこの出身ですか?」などの質問をしてみたが、返答は「アイ・アム・ジャパニーズ」の1点張りだった。

しかし、撮影していた女性との会話は、なんと韓国語。そこで、韓国語で「ハングッサーラミムニカ?(韓国人ですか?)」と聞いてみると、すかさず「ノー、アイ・アム・ジャパニーズ」と答え、日本語で聞いたことにはひとつも答えられなかったのである。

この様子を見ていた別の韓国人女性グループの旅行客は「彼らは韓国人ですよ。会話が自然な韓国語でしたから」と言っていた。

パスポートまで確認したわけではないが、どう見ても韓国人であるというのが結論だ。わざわざ旅行先で日本人のふりをして各地で迷惑行為をしているのは、日本人の評判を落とすためなのだろうか。だとすれば、なんとも手間のかかった反日工作である。
(文=片岡亮/NEWSIDER Tokyo)


3月 012017
 
 2017年3月1日  北朝鮮, 文化, 歴史, 韓国

半島の春/반도의 봄/ Spring of Korean Peninsula (1941)
https://youtu.be/T0MiZnCvb7s

下記のリンクから引用しました。。。

http://yohnishi.at.webry.info/201309/article_13.html

『半島の春』 – 社会言語学的に興味深い植民地下朝鮮メロドラマ映画

画像 1941年に植民地下朝鮮で製作された朝鮮語によるメロドラマ。今見ると当時の植民地における言語生活のあり方の貴重な証言になっており、言語学的関心から見ると非常に興味深い作品。監督・脚本はイ・ビョンイル(李炳逸)、撮影はヤン・セウン(梁世雄)、製作会社は明宝映画社。

以下あらすじはDVD-BOX「発掘された過去」パンフレットに掲載のものを引用翻訳して紹介。

映画社で映画「春香伝」を製作していた中、李英一(キム・イレ)に友人の妹で女優志望の金貞喜[ジョンヒ/ていき](キム・ソヨン)が訪ねてきた。英一は映画に適当な役がなく、貞喜をレコード会社に紹介してやり、面倒を見てやる。一方、英一と共に映画「春香伝」を撮影していた監督許勲(ソ・ウォルヨン)は、主演女優安羅[アンナ](ペク・ラン)に振り回されたあげく、彼女を追い出し、その代わり貞喜を春香役に起用した。貞喜の投入で撮影は順調に進行していた中、英一と許勲は制作費不足でトラブルに直面することになり、英一は映画社公金に手をつけ、投獄される。安羅の助けで英一は釈放され、朝鮮映画株式会社設立と共に「春香伝」は大成功を収める。同僚たちの後援で、英一と貞喜は東京へと旅立つ。

植民地下朝鮮では1919年の三一独立運動以降、皇民化政策は緩和され、朝鮮語による教育も行われるようになった。しかし1937年日中戦争開戦後、再び創氏改名等皇民化政策が強化されることになるが、それでもまだこの頃は朝鮮語の映画製作は認められていた(全面的に朝鮮語映画が禁止されるのは1944年になってからである)。軍国主義的色彩の濃い映画制作が本格化するのも1942年の朝映設立後ということであり、第2次大戦勃発の年に封切られた本作は意外にも軍国主義色は薄い。

本作品で映画「春香伝」の製作が背景として取り上げられているが、これは1935年に封切られた朝鮮初めてのトーキー映画『春香伝』が意識されているのであろう。

日本人である我々からすると、やはり興味深いのは当時の朝鮮人たちがどのような言語生活を送っていたのか、という点であろう。この映画にはほとんど日本人は登場しない。敢えて言えば、朝鮮映画社の創立場面で日本人らしい人がスピーチをする程度である。とはいえ、植民地下の朝鮮、彼らの日常会話のあちらこちらに日本語が混じる。どういう場面で日本語が使われているのか、という点が非常に興味深い。
こんにちは、ありがとう、といった挨拶に頻繁に日本語が使われるであろうことは簡単に想像が付くであろうが、それだけではなく、やはり男性(同士)、フォーマルな会話、そして地位が高かったりインテリであると日本語を交ぜて使う確率が高い。

この中で貞喜と安羅という二人の女性が非常に対照的な存在として映画に登場する。貞喜は平壌出身で映画女優を夢見て京城(けいじょう)に上京してきた女性。一方安羅は東京帰りの、当時の言葉で言えば典型的な「モ・ガ」である。人々は安羅のことを「東京で舞踊を勉強してきたと言うけれど、ダンサーでもやっていたんじゃないの」と噂する。ここで言う「ダンサー」とは、おそらくキャバレーなどの風俗店での踊り子のことを指すのであろう。極めてネガティブな単語として使われる。しかも安羅はレコード会社の部長と愛人関係にあったのが、捨てられてしまうという設定である。
貞喜は、安羅に飽きた部長に口説かれるものの、彼女はただひたすら英一を見つめる貞淑な女性として描かれる。一方安羅は、部長の愛人になるような蓮っ葉で奔放な女として描かれている。
英一は、実は安羅から、よく考えると極めて献身的な奉仕を受けている。もちろん貞喜は英一一筋という純粋な気持ちを持っているものの、実質的に何も英一を助けていない。それにもかかわらず英一は当然のように貞喜を選択し、安羅は「私には英一さんを愛する資格がない」とさも当然のように身を引いてしまう。現代の視点から見れば安羅だって、否、安羅こそ英一に対する気持ちの純粋さ、打算のなさは掛け値のないものだ。それがあっさり、英一が貞喜を、何のジレンマもなく選択してしまうことに違和感を感じる。
そして実は、言語的な側面から見ると、こんな二人は、貞喜が殆ど日本語を使わない一方で、安羅は殆どの会話を日本語で通しているのだ。貞喜が伝統的な朝鮮の価値観に合致する女性なら、安羅は日本にかぶれ、近代的(西洋的)価値観に「毒された」女性のシンボルとして描かれている、ということだ(おそらく当時、実際に日本かぶれの女性は日本語を多用していたのであろう)。
ここに当時の朝鮮人たちの日本人や日本文化に対するアンビバレントな気持ちが反映されていると見るのは、穿った見方だろうか。

男性の中では日本語を使いこなすことに一種のステータスの誇示が込められている一方、日本語を流暢に使いこなし、日本文化を身につけた女性に対する冷ややかな視線。よく言えばそれは民族の誇りに対する無意識的表現なのかもしれないが、一方それは朝鮮戦争後「洋公主」を見る韓国人の視線、日本で言えば戦後の「パンパン」や「オンリーさん」を見る蔑視の視線、つまり羨みとやっかみ、宗主国文化へのあこがれと反発それに女性蔑視あるいは家父長的価値観が混ざったような視線と重なってくるようにも思える。

そしてこれは『シリアの花嫁』でエラン・リクリスが描く対象としたジレンマとも重なってくるのである。

監督のイ・ビョンイル(1910-78)は、咸鏡南道咸興生まれ。1936年日活に入社し演出部所属。1940年、朝鮮に戻り明宝映画社を設立。解放後1947年に渡米し、南カルフォルニア大学映画学科に留学。朝鮮戦争後、『嫁に行く日』(1956)『自由結婚』(1958)『青春日記』(1959)『帰国船』(1963)『工作夫人』(1964)等を監督し、1970年代前半まで活発に活躍する。『嫁に行く日』はベルリン国際映画祭に出品され、韓国最初の国際映画祭出品作となる。

なお、本作品を収録したDVD-BOX「発掘された過去」は1940年代の朝鮮映画が収録された韓国映像資料院企画のDVD-BOXだが、初版完売後なぜか再版されていない。他の「発掘された過去」シリーズは再版されているのであるが…

ただし韓国映像資料院が公式にYoutubeに動画を公開しているので見ることができる。URLは下記の通り。
http://www.youtube.com/watch?v=T0MiZnCvb7s&feature=player_detailpage
(英語字幕だが、焼き込みのオリジナル日本語字幕がついている)